その本を捕まえたのは、夜分のことだった。
蝋燭の明かりに照らされたその姿は苦しそうにページを開いたり閉じたりしては悶えていた。ポシャは一気に血の気が引くのを感じた。
ポシャ「そんな! どうして!?」
慌てて開いた本の大部分は虫に喰われたような無数の小さな穴が、空き"続けていた"。
ポシャ「そんな……本の世界が……!」
――早く解呪しなきゃ中の人たちが……! でも……
ただただ穴の空くページを眺めているほか無かった。決心がつかない。
この本の儚く、それでいて思い込みという狂気に満ちた、"狂った幸せ"の世界観を心底美しいと思っていた。
できることなら、この世のあらゆる嫌なことから逃げ、このような世界にいられたら、何にも気付くことなく傷付くこともなく、ずっとただ幸せに過ごせるのにと。
どうやらそのような考えがブック・カースに伝え漏れてしまったらしい。本は目についたあらゆる人という人を物語の中へと引きずり込むようになった。ただし、ポシャ自身を除いて。
おそらく解呪の方法をもっているポシャに捕まっては解呪されてしまうと、ブック・カースが判断したためだろう。ポシャ自身は微塵もそのようなことを考えてなどいなかったのだが。
ポシャ「……本の中に行きたかったのは私なのに……なんで……?」
感情に任せ叩いたページは、まるで泥のように粘度のある沼のようで、ポシャはそのまま滑り落ちるように本の中に飲み込まれていった。
目を開けると薄紫とピンク色のグラデーションが美しい星空。星は歌い、音符は踊る。まるで思い描いた物語の世界観そのままだった。
体を起こすと目の前には大きな城。奥から現れたのは、何度も挿し絵で見たその人だった。
ポシャ「王子さま!」
「ようこそ! 我が城へ! 我が姫!」
物語そのままのセリフ。必要とするもの"だけ"になった世界で、これを言われることを、一体何度憧れたことだろうか。
だが、城の中に入るなり愕然とした。
城内は、空間に不自然な無数の穴が空き、ところどころ景色が"見えない"。その空間だけ、まるで何もないのだ。現実ではあり得ない、不自然な空間の歪み。だがそれは綺麗に円を保ったまま、悠然とそこに存在する。まるで世界を食らう"虫食い"穴だった。
ポシャ「王子さま、王子さま! これは一体……!?」
構わず前を進む王子は、ある部屋の前まで行くと、ようやく振り返った。
「我が姫、ここがそなたの部屋だよ、おかえり」
見覚えがあるセリフ。物語のラストだ。
ポシャ「待って! 王子さま!」
振り返ると王子の姿は無かった。目につくところを探しに探し、今一度城外に出たときだった。
最初は気づかなかったが、城の正面は乱暴に破かれたページのように荒々しく、その先の空間がない。先の見えない真っ暗の闇。背後から、再びあの声が聞こえてきた。
「ようこそ! 我が城へ! 我が姫!」
まるで、既に一度通してくれた事実などなかったかのようだった。
巻き戻された物語。それは単にページの進行でしかない。
ポシャは膝から崩れ落ちた。信じたものに裏切られ、全身から気力という気力抜け出てしまった、そんな感覚だった。
「"本ん世界"っち、こうゆうこつや無かばい、やっぱ」
いつの間にか、すぐ隣には巨大なカエルの顔。ポシャは驚き飛び退いた。
ポシャ「あ……先日の旅人さん」
セルダン「おれもさ、字は読めんけど、好いとっちゃん、本、ゲコッ! 絵本ね」
蛙男は立ち上がると、ポシャに手を差し伸べた。
セルダン「物語には終わりばあっけん、そん読後感っちゅうか、余韻ち気持ちよかよな、こん後どげんなりよったんやろうとかさ」
そうだ、それが好きで、本が好きで、ここに就いた。
セルダン「ずっと同じページば捲っても、そん後どげんなりよったかいなんて答えはなかぞ。読んだ本人ん中にしか」
それが行きたかった本当の本の世界。そしてそれは最も近くて行けることのない、ただの幻。心の底ではわかっていた。でも、認めたくなどなかった。きっとどこかにあるのだと、信じていたかった。
ポシャ「逃げたいの! 何もかもから……親の借金とか、職場とか……色々なことが沢山で」
セルダン「人間、歩く度にシガラミば絡まる、ばってんそーゆうもんだ、気にすんな」
絡まらないことなどありはしない。足りないのは、シガラミと向き合う気持ちだけか。
セルダン「ゲコッゲコッゲコッ! とんずらこくば、まだ早か! もっぺんがんばりんしゃい」
その決して他人事ではなく、暖かで力強い"がんばれ"という言葉は、心の奥底に沈んだ燻りをそっと押し上げてくれる、不思議な気持ちにさせた。
ポシャ「……ありがとう、旅人さん、解呪します」
ようやく抜け出た外の世界に、リンリンは気持ち良さそうに伸びをした。
リンリン「けど、一体なんだったの魔蟲って」
被害者が一ヶ所に集められていたことがこれ幸いと、ザパイから奪った"白い粉"を持ってセルダンは表へ出ていき、シェンはただただアーティファクトをかざしてセルダンの帰りを待っていただけだった。それだけだったが、穴だらけだった城内で唯一、その部屋には一切の影響も無かった。
セルダン「あいつらアーティファクトば好かんったい。本に放ったやつらはぴしゃーっと一匹残らず駆除したけん、問題なかよ」
リンリン「だから、一体何なのかって聞いてるの!」
セルダン「ゲコッゲコッ! 俺もわからん! 前見たもんとはガラリと変わっとう。別製品か、改良版か、どんみち人に使うもんやなか。ザパイには言うて聞かせんばいけん」
そういえば、と思い出したように、巨大な目玉は先ほどから珍しく黙りこくっている同僚に向いた。
セルダン「なんか俺ば探しとるっち言うてたけど、よう見つけきったなあ! "呪いにかかわったどいつもこいつも"俺ん記憶ば1月くらいしか持たんとよ。ポシャも長くて1月したら俺んこと忘れるばい」
視線の向けられた同僚は考え事をしているのか、まるで問いかけなど耳に入っていない様子だった。リンリンの小さな手がバシバシとシェンの頭を叩いた。
シェン「ん? ああ、悪い悪い。セルダン、お前にちょっと頼みがあるんだ」
セルダン「ゲコッ? トランプん招集かなんかか? よかよ、ザパイんところに寄っちがらなら」
シェン「いいや、ハズレ」
いつもの屈託の無い笑顔で、いつもの明るい声で、出てきた言葉は次のようなものだった。

シェン「あと最低3ヶ月、俺に見つからないでくれ」
セルダン「ゲコッ?」
――― trick beat ( さんまいのよつば4 ) ―――
2012.9.28 KurimCoroque(栗ムコロッケ)