37.anomie bud prev next
back


 トウジロウ「はあ? 統括? 誰が?」
 リシュリュー「あなたがですよ、スペードのエース」



―――― anomie bud新たなる芽 ――――



 ヴァルハラ帝国東部 グラブ・ダブ・ドリップ魔導師協会管轄地区 トランプ本部 "スペードのエース"執務室。
 突然言い渡されたその辞令。それは"絶対にあるはずがない"とトウジロウ自身だけでなく、誰もがそう思っていた、タカをくくっていたものだった。
 途端に、言い渡された張本人は皮肉たっぷりに鼻で笑った。
 トウジロウ「どんだけ人手が足りひんねん」
 リシュリュー「お分かりでしょう、状況を」

 ポリポリと頭を掻き、少しの沈黙。

 トウジロウ「……特別体制解除や、全員通常業務に戻す。一部はスペードのキングと同じ業務に回す」
 これまた一筋縄ではいかないな、とリシュリューは腹を括った。
 リシュリュー「ハート軍が築き上げてきたこの体制を、解除ということですね。理由は」
 トウジロウ「ノッシュナイドが一月後にファリアス港に現れることは明白。特別体制として残すはスペードのキング担当の"グランドセブン招集業務"とハートのエース担当の"通常業務"、全員割く必要がどこあんねん、アホくさ」
 確かにその通りだ。だが、それがリシュリューの頭を痛めた。
 なぜなら、このトランプという組織でトウジロウは「キングから降格した、能力の低い」それでいてどちらかというと「組織内における悪役ヒール」である、というのが一般隊員の暗黙の認識だった。それはつまり、トウジロウの言葉がいくら理にかなっていようが、正論であろうが、隊員たちにとって心情的に受け入れがたいものであった。
 勿論このような仕事に私情は厳禁。それであっても禁じ得ない、それだけトウジロウと隊員たちの溝は深かった。(36.x話参照)

 どうやら、そのようなことをあれこれ考えていたことを読み取られたようだ。トウジロウの声のトーンは低かった。
 トウジロウ「なんや、トウカツサマの言うことが聞けへんのんかい」
 リシュリュー「いいえ……通達して参ります」

 そうしてリシュリューが閉じた扉を、静かになった部屋で一人、しばらくの間見つめていた。


        


 ◆


 「体制解除!?」
 「まだノッシュナイドは捕まっていないじゃないか」
 「何考えてんだよ、あのエースサマは!」
 「よっぽどハート軍が気にくわないらしいな」

 当然のように沸き上がる不平不満。

 その角でポツンと、どこ吹く風の男が一人。
 「あいつは別の意味で不満だろうなあ」
 「なんでハート軍にいやがんだよ」
 「さっさと諜報クラブか事務行けってんだよ」
 「まあ、どこ行こうがどうせ仕事しねぇだろ」

 「"逃げ足"ジェリー」

 パンパンの隊服、ぼりぼりと落ちるジャンクフードの食べかす、怠惰な瞳に大きな欠伸、白髪混じりの薄い頭――トランプ現役最高齢"逃げ足"ジェリー。彼は未だに階級すらつかない底辺も底辺の一般隊員だった。

 ジェリー(面倒くせぇ面倒くせぇ……そういやハートのエースが俺に話したいことがあるっつってたな……まあ、また次言われたときでいいだろ、どうせクビ勧告だろうし。ああ、面倒くせぇ……)

 続いて控え室に響くノックの音。わざわざ一般隊員の控え室にノックするなど一体誰だ。リシュリューがドアを開けるとそこには、
 リシュリュー「ハートのエース!」
 ライトブラウンのクセッ毛にぬぼっとした焦げ茶色の瞳、クロブチメガネの優男――"ハートのエース"ウランド。自宅謹慎中のはずであった。当然のようにリシュリューの口から出かけた「なぜここに」という問いを遮るように、ウランドは目の前で人差し指を立ててみせた。つまり、無断で出勤してきたということだ。
 トウジロウからの指令でどんよりと沈んでいた隊員たちから、一斉に「エース、エース」と声が上がった。

 「あんな抗議文、事実無根ですよね!?」
 「いつまでサボッてるんすか!」
 「早く戻って来てくださいよ!」
 「例の案件の話ですけど……」
 「いやいや、こっちの案件のほうが先だって!」
 ウランド「……まあまあ、皆さん落ち着いてください」

 いつもの低くボソボソとした、それでいて穏やかな物言いだったが、隊員たちはピタリと静まり気を付けの姿勢でウランドの次の言葉を待った。
 ウランド「……私は謹慎中の身です、そう畏まらないでください」
 隊員たちが姿勢を崩すことはなかった。困ったな、とウランドは頭を掻いた。
 ウランド「……事実がどうであれ、道士協会殿につけ入る隙を与えてしまったのは私の責任です、それと各案件の今後の方針はキングへ」

 リシュリュー「ハートのエース」

 恐る恐る、その場の誰もが訴えたかったことを、リシュリューは進言した。
 リシュリュー「ハートのキングは出張中です、現在トランプの特別体制取りまとめはスペードのエースに」
 何食わぬ顔で、ウランドは返した。
 ウランド「そう、じゃあ各案件の方針はスペードのエースに従ってください。ええと、それから……」

 再び、隊員たちは一斉に声をあげ始めた。
 「なぜハートの案件をスペードのエースに」
 「スペードのエースは特別体制を解除すると言っています!」

 どこか不満混じりの主張たちに、ウランドはわからないと肩を竦めた。
 ウランド「皆さんがおっしゃるその中に、なにかおかしなことが?」
 再度、場は鎮まった。

 ウランド「……みんなに不満があって、それが納得のいかないものであるなら、それはスペードのエースの説明不足だ。ちなみに補足すると、あいつは結構言葉足らずな上にそれで通じないのはおかしいだろってフシがあるから。で、何が納得いかないの? 効率に影響するなら、スペードのエースに訴えるべきだ」

 何が納得いかないか、そんなもの回答はたったの一つ、信頼の話だ。

 ウランド「信頼関係なんて、一長一短でなんとかなるものじゃあないでしょ? であればみんな自身が内容に納得できるかどうかで判断しなさい。スペードのエースは何か間違ったことを言ってる? 意見があるなら代わりに伝えてきますよ?」

 冷や水を浴びせられたようだった。信頼関係などと、何を甘ったれたことを言っていたのだろう。これは仕事なのだ。
 そのような周囲に聞こえぬよう、リシュリューは小さく言った。
 リシュリュー「ありがとうございます、エース」
 返事代わりにニコリと笑って見せると、ウランドはツカツカと部屋の角に歩を進め、両手を腰に置いた。

 ウランド「さて、ジェリーさん、面談のお約束が先伸ばしとなっていて申し訳ありませんでした」
 なぜこのタイミングで、とジェリーは注目の的になっていることに非常に落ち着かない様子だった。
 ジェリー「あ、いえそんな、滅相も」
 ウランド「時間も限られているのでこの場でよろしいですかね?」
 ジェリー「はい?」

 まさかこんな公衆の面前でクビ勧告か、なかなかえげつないことをしてくれると思った矢先の次の一言だった。


        
        
        
 ウランド「次のハートのエースに、私は貴方を指名します」


 その場の誰もが、ジェリー本人ですら、ウランドが一体何を言っているのか理解することが出来なかった。
 ウランド「あれ? 何か変なこと言いました?」
 場の全員が一斉に答えた。
 「言いました」

 "逃げ足"ジェリー。戦場で危険な目に遭う前に一目散に逃げ出す、一部で給料泥棒と揶揄される、一般隊員最年長42歳。トランプらしからぬ弛んだ体型、怠惰な態度、年齢以外、殆ど誰も目を向けることの無い、冴えない男。そんな男が突然の"副将軍"指名。誰もが、単なる冗談かと思った。ジェリーもまた冗談混じりに鼻で笑って見せた。
 ジェリー「ハートのエースってこたあ、あの"べっぴんキングサマ"とイイことし放題なんでしょう? 給料も比べ物になんないくらい跳ね上がるし、部下に命令し放題! 最高じゃあないですか! 年功序列のお気遣いですかあ? さすがエース!」
 青筋を立てた、他の一般隊員たちの、今にも殴りかからんという視線がジェリーの全身を突き刺した。ヤバいとジェリーは苦笑した。

 不安げに向けられたリシュリューの青い瞳を背中に、ただ一人ウランドは笑い飛ばした。
 ウランド「ハハハ! 彼女を見くびらないほうがいい、貴方の性根は叩き直していただけますよ。私が貴方を指名したいのは何も年功序列からではありません」
 全員が、ウランドの次の言葉を待った。

 ウランド「貴方は一般隊員というトランプで最も危険な最前線にいながらにして、そのお年まで大きな怪我をすることなくいらっしゃる。部下に無理をさせず、最も生存率の高い安全な指揮をとっていただけることを、私は貴方に期待します」

 こんな、上も上の雲の上のような上司から"期待する"などと。ジェリーは初めて言われたことの重さを理解した。
 ジェリー「いや、ちょっとその、面倒臭いっていうか、俺やっぱいいです」
 ウランド「まあ、ちょっと考えてみてください」
 ジェリー「や、だから遠慮しますって……」
 ウランド「さて、時間もないのでこれで失礼しますね、色好い返事を期待しています、ジェリーさん」
 ジェリー(ゴリ押しーーっ)

 反論しかける前にウランドはそそくさと部屋を出ていってしまった。どうやら本当に無断出勤らしい、しかも、ジェリーと面談するためだけの。
 えらいことになってしまった。ジェリーはいつものようにすぐにでも"逃げ出し"たかった。

        
        
        
        
 ◆


 ――スペードのエース執務室

 ウランド「お疲れ様です。統括殿」
 トウジロウは幸いまだ火をつけていなかった煙草をポロリと落とした。

 トウジロウ「何しとんねん、自分、謹慎中やないんかい」
 ウランド「うちのキングが出張だって聞いたんだけど」

 その瞬間、場に苛立った空気が流れた。

 トウジロウ「せやから、なんでこの間っからアイツの話をわざわざ俺にすんねん! 自分だけやぞ!」
 ウランド「キングは何の出張かと聞いているんだ」
 トウジロウ「お前はまず人の話を聞け!」
 あからさまにイライラと、煙草から煙が上がった。トウジロウは頬杖をつき、そっぽを向いた。

 ウランド「あ、イラつきかたがソックリ。……これはさすがに言ったら怒るかな」
 トウジロウ「言うとるがな既にーーっ!」
 煙草を乱暴に灰皿に投げつけ、いたたまれなさそうに席を立った。

 火のついたままの煙草をぐりぐりと揉み消しながら、ウランドは続けた。
 ウランド「"カグヤさん"を頼むよ、本当に」
 トウジロウ「名前を出すなや忌々しい!」
 ウランド「次のハートのエースは恐らくキングが頑張りすぎる、個人的にスペードのキングには頼みたくない」
 思いがけぬ発言がぽろぽろと、トウジロウは唖然とウランドの背中を見つめていた。
 ウランド「リケさんにはこれ以上回りに気を使わせたくない、ほら、お前しかいないじゃないか」
 トウジロウ「何を言うてんねん、ホンマ」

 ウランド「さっき、次のハートのエース候補にジェリーさんを打診してきた、キングにも話を通しておきたかったんだが、お戻りはいつだ? どこへ行かれた」
 トウジロウ「知るかい、そもそもジェリーて誰やねん。ちゅーか、スペードのキング好かんかったんかい」
 ウランド「スペードのキングはお考えがよくわからないし、近々ハートのキングを傷つける気がしてならない。ジェリーさんはハート軍の下級隊員の最年長だ。通称"逃げ足"ジェリー、知らない?」

 トウジロウ「お前の人の見方、全くわからん」
 ウランド「わからなくていい、お前にはお前の物の見方はあるだろ。……じゃなくて、ハートのキングのご出張先をお前が知らないのはおかしい。俺に隠しているな。吐け」
 トウジロウ「せーやーかーらー、何っで俺に聞くねん、秘書に聞けや秘書に!」
 ウランド「そうやっていつまでもリシュリューさんの背中に隠れてるから部下からナメられるんだ」

 ブチンと切れる音が聞こえた。はっきりと。

 ウランド「言われるようなことをしているのはお前だぞ、俺にキレても仕方ないだろう」
 ゴツゴツとした岩のような手がウランドの胸ぐらを掴みあげた。ウランドは指先ひとつ動かすことはなかった。
 ウランド「お前はもうわかっているはずだ。二年前のお前とは違う。だが動かなきゃ変わらない。お前はもう大丈夫だよ」

 掴んでいた胸ぐらを乱暴に離すと、窓際に腰かけ、煙草をくわえた。
 トウジロウ「何やねん、気色悪い」

 ウランド「うちのキングにもそのくらいの繊細さがあっていいと思うんだけどなあ」
 トウジロウ「せやから」
 ウランド「トウジロウ、うちのキングはどこに」
 トウジロウ「ああもうひつこい! 道士協会や道士協会! ワビ入れ行ってん!」

 それに対するウランドの反応は意外と淡白だった。
 ウランド「そう。あの方には本当に迷惑をかける」
 トウジロウ「ホンマに思てんのん?」
 ウランド「思ってるよ、失礼だな。それより、あとは頼んだぞ」
 トウジロウ「勝手に頼むなや! 迷惑すぎるわ!」
 ウランド「じゃあな」
 トウジロウ「待てやコラ!」

 言い終える前に、ウランドはそそくさと消えてしまった。


 トウジロウ「……なんやねん、ホンマに」


        


 ◆


 本部の裏口から出ようと言うときに、ちょうどはちあわせた旧友。褐色の艶やかな肌に美しい黒髪の美女――グウェン。
 グウェン「相変わらずジッとしていられない人ね」
 ウランド「グウェン……仕事?」

 ニヤリと微笑み、先に扉を開けたのはグウェンだった。

 グウェン「まあね、どっかの誰かさんが取り逃がしたホシをね」
 人気のない裏庭、静かに揺れる木洩れ日、眠気を誘うような穏やかな午後だった。
 ウランド「ロロ・ウーか……深追いは厳禁だよ、彼は強烈な道術を、」
 クスリと遮るような笑い声が一つ。
 グウェン「こんなときまで仕事熱心ね」
 ウランド「そりゃあ命に関わることだし、熱心にならないのはおかしい」
 グウェン「貴方はもっと自分のことを考えたほうがいいわ」
 言ってくれるとウランドは肩を竦めた。
 ウランド「その結果がコレなんだけど」
 グウェン「極端ね、本当」

 暫くの間、芝生を踏む二人分の足音が続いた。揃えばあまり沈黙にはならないこの二人だが、この沈黙は仕事前の緊張感からか、別の要因からか。どちらからともなく緩まる歩幅。先に切り出したのはウランドだった。

 ウランド「多分、君が次に本部に戻る頃には俺はいない」
 グウェン「何よ、死ぬわけじゃあ無いんでしょう?」
 ウランド「アトランティスの方に引っ越す」
 グウェン「一人で?」
 ウランド「二人で」
 グウェン「寛大な彼女ね、いや、奥さんか」
 ウランド「……彼女だよ」

 この男ほどの魔導師がトランプを離れる、グウェンが真っ先に思い浮かんだのはたった一つだった。

 グウェン「……私に貴方の捜索させないでよね」
 魔導師連続失踪事件(22.x話)のことだ。ニヤリとクロブチメガネの奥がイタズラっぽく笑った。
 ウランド「探してくれるの? 楽しみだな」
 グウェン「不謹慎」

 おどけるウランドをピシャリと、たしなめるように、グウェンの声は低かった。真面目な話がしたいの、ということだ。

 ウランド「……タイミング的には予想外だよ、特別体制までは全うするつもりだった」
 グウェン「お願いだから無茶はしないで、これからは奥さん悲しませないことだけ考えて」
 ばつの悪そうに、ウランドは頬を掻いた。
 ウランド「……彼女だってば」
 グウェン「話を逸らさないで。いつまでもちゃらんぽらんと事件のケツなんか追ってないで、そろそろケジメつけなさいよ」
 ウランド「なんで君にそこまで言われなきゃいけないの」
 グウェン「友人として、貴方の幸せを願っているからよ、おかしいこと言っているかしら?」

 ウランドは顔を逸らした。

 ウランド「言ってないよ、ごめん」
 グウェン「ガキんちょ!」
 ウランド「……うん」

 そしてピシャリとウランドの背中を叩くとグウェンは歩を早めた。くるりと振り返ったその笑顔は、とても眩しかった。

 グウェン「またね、ウランド。貴方の部下でいられてよかったわ」
 裏庭を抜け、表通りに出る一歩手前。携帯型のマジック・ワープでゆらりと姿を消したその場所をウランドは暫く見つめていた。

 心にあるのは今しがたのあの笑顔。これ以上あのかわいい部下であり大切な親友である彼女を悲しませないため、結婚前の最後の仕事と決めたこと――魔導師連続失踪事件の解決。


 ――絶対に、犯人を捕まえる


 その目には、既にトランプへの執着は微塵もなかった。


        
        
        
 ◆


 潮風香る石畳。絶え間なく歌う海鳥の鳴き声。遠くの潮騒。
 
 トボトボと引きずるように歩く華奢な肩。猫の尻尾はダラリと垂れ、頭の中はザワザワと落ち着かない。
 教会を出てからアテもなくブラブラと、一体どれ程時間が経過しただろう。ミルクティー色の髪は潮風でベタベタだった。
 ラプリィ(……シャワー浴びたい)
 唯一、戻れる場所といったら、あのアパルトマンしかなかった。
 ラプリィ(鍵……)
 入れていたはずのポケットは見当たらない。揉み合った際に落としたか。あの診療所に戻るしかない。

 こそこそと診療所の裏手に回り、部屋の位置を確認した。割った窓ガラスは応急処置として板で塞がれていた。隣の部屋から入り込むしかなかった。
 隣の部屋の様子を窺うと、ラプリィは反射的に身を屈めた。怪我をさせてしまったあの、父親だ。それに母親、オマケにあのヤバイ用心棒までいる。心臓の振動が、ガンガンと脳みそまで揺らした。
 追い討ちをかけるように、窓越しから聞こえてきた父親の声に、ラプリィは飛び跳ねた。

 父親「いただけません、そんな大金」

 夫妻は、契約が切れたはずの用心棒が突然差し出した大金に困惑していた。用心棒は小さく首を振ると、ベッドの脇に大金の詰まった麻袋を置き、立ち去ろうとした。
 当然、すかさず引き留められた。
 母親「ハイジさん、お気持ちだけで結構ですから」
 ハイジは無表情に見下ろすと、首を傾げた。
 母親「あなた怪我をしているじゃない、また無茶をしたんじゃあないんですか? そうまでして……」
 続きを言いかける前に、ハイジは深く頷いた。次いで合わさった目で、夫妻はこの無口な用心棒が伝えたかったことが理解できた。
  母親「……そうまでしてまで、助けたかった……」
 父親「旅の……お礼に?」
 ハイジはニコリと微笑むと、気恥ずかしそうに小さく会釈し、そのまま立ち去った。

 母親が後を追って廊下に出たが、すでにその姿はなかった。父親は静かに麻袋に額を付けた。
 父親「……ありがとう、ございます」

 窓越しに繰り広げられたやり取りは、ラプリィの鍵を取り戻すという気力を見事に打ち砕いた。
 ずっと憧れていたカタギの世界。人と人とが思いやりで繋がり、優しさを与え合え、それが当たり前の世界。そこから、自分は随分と遠ざかってしまった気がする。

 尻に刺さる芝生の感触が、虚しさを押し広げた。

 自分は、こんなところで何をやっているんだ。親も金も家も友人も、何一つない。見世物小屋から、ラァルが逃げなかった理由が、ようやくわかった。


 ――私には、生きる場所が、ない


 頬を撫でる風も、空から降る鳥の鳴き声も、塀越しに聞こえる人の談笑も、照りつける太陽の暖かさですら、残酷に思えた。

 唯一の拠り所であるヘズの短剣を抱き締めようと腰のベルトに手をかけた。ところが、その先についているはずのホルダーがない。
 ラプリィ(短剣……ない! 教会だ……!)

 他に頼るものがない、世界で唯一の宝物を取り戻すためのその走りは、悲壮感に満ちたものだった。
 しかし、その足は途中で止められることになった。雑踏の中、見間違えるはずがないその姿。
 ラプリィ「ロロ……!」
 細い路地に入っていくのを確認し、自然とその足が向いたが、再び歩みは止まった。
 彼の後を追うように、同じ路地に入ったのは、あの修道女だった。ラプリィの頭の中は、一瞬にして塗り替えられた。

 ラプリィ(やっぱり! 騙された!)


        


 細い階段が続く小さな路地。迫るような左右の壁にはたくさんの落書き。そのいくつかには"黒い三日月"の名で魔薬の売買を広告するものもあった。数ヶ月は前のものと思われるその筆跡がメンバーの誰のものであるか直ぐにわかった。空色の瞳は懐かしむように細められた。
 ロロ(お前らが直ぐにでも戻って来れる"楽園うち"を、直ぐに建ててやるからな。汚ぇブタ小屋にぶちこみやがった警察イヌどもは皆殺しだ)

 力のこもるその手には、パンパンに詰まった紙袋。市場で購入した保存のきく食材。持ち帰り、"やつら"に持たせたら、直ぐに旅に出る。
 キョンシーである自分自身は食べなくても墨汁さえあればいいが、問題はエリスとクリスだ。
 いや、問題というよりも、"いつものように"エリスで"遊ぶ"のが目的だ。女を傷つけたくて傷つけたくて、その衝動が押さえられない。クリスの目が光る中でやってのけるスリル感。ジパングから戻ってきた"やつら"のリアクション。完全に、エリスの同行は、ロロにとっての暇つぶしにとってかわっていた。


 「ごきげんよう」


 振り返ると、数段下にタンポポのようなおっとりとした笑顔を向ける修道女。その手元には見覚えのある短刀。

 ロロ「あれ〜? それラプリィのだよね〜? あんた誰〜?」
 シュザア「ラプリィさんの忘れ物よ、お返ししたくって。あなたラプリィさんの居場所知ってるわよね?」
 ロロ「生きてたんだ〜? よかったね〜」

 まるで言葉のキャッチボールをする気が感じられない。修道女の声は低くなった。

 シュザア「まるで他人事ね。あなたがやったのに」
 ロロ「だって、他人じゃん? あんたこそ何なの、関係ある人?」
 シュザア「この街から出ていって。今、直ぐに」
 ロロ「あ〜」

 その空色の瞳は懐かしむようにどこか遠くを見つめていた。
 ロロ(こういう女はみんなで●●して棄ててたな〜。あの時のみんな楽しそうだったな〜女もヒャクパー泣きながら命乞いするからイイ気味だったし〜)

 シュザア「ちょっと、聞いてるの?」
 空色の瞳の視線はシュザアに戻った。

 吸い込まれそうな綺麗な蒼。初めて近くで姿を見たが、なるほど心に隙間のある女性が堕ちるわけだ、ラプリィを始め女性たちがあそこまで躍起になる理由がわからなくもなかった。

 ロロ「聞いてる。それを言いに来ただけ?」

 その時、空色の瞳の端に映ったのは、シュザアの遥か後方から、階段を登ってくる小さな影。

 シュザア「そうよ、どうなの?」

 問われた男の口はニヤリとつり上がった。

 ロロ「そうだなぁ」

 そうしてシュザアの手首を掴むとそのまま壁際に寄りかかり、シュザアを引き寄せた。
 この狭い路地だ、後ろから誰か通りに来たのかと、一瞬思ったが、次に背後から聞こえてきたその声に、嵌められたのだと気付いた。

 ラプリィ「やっぱり私を騙したのねーーっ!」

 階段を駆け上がる、燃えたぎるような猫の瞳は真っ直ぐとシュザアに向けられていた。頭のすぐ上でロロの楽しそうにバカにした声が降ってきた。
 ロロ「欲求不満ですか、シスター。残念ながらうちの魔薬組織は売春の取り扱いはありませーん! 他当たってくださ〜い!」
 振り上げた拳は虚しく宙を掻き、なおも怒りと屈辱に燃えたその瞳は相手を追った。だが、いくら周囲を見回しても見当たらない。
 ロロ「あっかんべ〜だ」
 降ってきた声は遥か頭上、建物の屋根にあった。
 手をヒラヒラとイタズラ小僧のように下品に舌を出すとそのまま屋根の向こうへと姿を消した。

 シュザア「くっ! 待ちなさい! ロロ・ウー!」
 ラプリィ「あなたが待ちなさいよ!」
 鋭い猫の爪が宙を掻いた。

 そうしてその手はそのままガシリとシュザアの持っていた短剣を掴んだ。

 ラプリィ「返してよっ!」
 シュザア「あっ! ご、ごめんなさい……」

 乱暴に奪い取った短剣を大事そうに抱き締めると、興奮しきった猫の瞳は目の前の修道女を激しく睨み付けた。
 シュザア「落ち着いて、ラプリィさん、誤解だわ……」
 ラプリィ「何が誤解よ! 嘘つき! 卑怯者! 最低よ! 他の女を引きはなそうと彼の悪口を言うなんて!」
 シュザア「ち、違うの、あれは貴女を私に仕向けようとロロ・ウーがわざと」
 ラプリィ「ほら! そうやって悪口」

 まずい、これでは何を言っても単に言い訳しているだけに聞こえてしまう。困ったわ、とシュザアは小さくため息をついた。その間に、ラプリィは短剣を引き抜いていた。
 シュザア「ちょ、ちょっとラプリィさん!」
 その切っ先は震えていた。
 ラプリィ「ゆっ、ゆるさない……これ以上彼に近づいたら許さないんだから!」
 シュザア「わかったから、落ち着いて。そんな物騒なものはしまって」

 その一言はラプリィを更に逆上させた。

 ラプリィ「物騒なものなんかじゃない! 大切な人を守るための道具よ!」
 シュザア「……武器を持つ者はみな、私も含め同じその偽善的な言い訳をするわ。あなたはそんな言葉を口にするような人生を送ってはだめ。今ならまだ……」
 ラプリィ「わかったような口きかないで! 何にも知らないくせに! 私にはロロしかいないんだからあ!」

 振りかざされた短剣。至極気が進まなかったが、致し方ないとシュザアは拳を構えた。

 その時だった。ラプリィはシュザアの"背後に"怯えたように、後退りし始めた。


        


 シュザア「ん?」

 クルリと振り返ると、そこにはボロボロに焼け焦げた衣服を身に纏った、鋭い狐目の仮面の男。
 シュザア「"狂犬"!」

 ニタリと笑い見下ろすその目は心底愉快そうで、それでいて冷えた鉄のように冷たかった。
 ハイジ「……罪を重ねろ、D・O・A(生死問わずの賞金首)になれば俺が狩ってやる」

 まったく言葉通りの意味だったが、ラプリィは見逃してやるから立ち去れと解釈した。
 ガクガクと笑う膝を引きずるように、ラプリィは逃げ去った。

 ふと場の空気が落ち着くと、ふつふつと込み上げるロロ・ウーへの怒り。生まれて初めて言われたあの屈辱的な言葉。シュザアは顔を真っ赤に頬を膨らませた。

 とばっちり

 シュザア「もうっ! 数年ぶりにあなたが現れたせいだからねっ」
 何が何だかわからないとハイジはきょとんとしていた。

 シュザア「……ところで、酷い怪我……火傷じゃない! 手当てを」
 ハイジはさして気に留める様子もなく、そのまま階段を降りていった。すかさずシュザアの白い手が伸びた。
 シュザア「だめだって! 手当てしなきゃ!」
 心底面倒臭そうなため息。傷の手当てほど退屈で時間を持て余すものはない。
 シュザア「だーめ! たまには体を休めてあげなきゃ!」


        


 ◆


 大陸も遥かに霞む海の上。波の立つこともない無音の世界。

 カサモト「凪いでしもうたかーっ! わはははーっ!」
 フィード「何がおかしいんだよ、ヒマだな、クソ」

 真っ白いガウンのような巻き衣装に着替えさせられ、すべての荷物は取り上げられてしまった。カードゲームも、本も、嗜好品(というよりフィードのおやつ)も、何もかもない。フィードの言う通り、ハッキリ言って、船上では何もすることがなかった。オマケに風が止まった。到着まで遅れが予想される。

 呆れた様子でハニアは声をかけた。
 ハニア「そういうもんだよ、だって船の上だよ。風がないなら風が来るまで待つしかないじゃん……」
 そして急に声を縮めた。
 ハニア「魔法圏は違うの?」
 エオルもまた、声を縮めて回答した。
 エオル「うん、魔法を使って、風を起こすんだ。だから船が止まるってことは考えられないよ」
 ハニア「へぇ! 便利なんだなあ!」

 カサモト「ほーぅ! 便利じゃのーっ!」

 エオル「うわっ!」
 すぐ後ろから聞こえてきた突然の参加者の声に、エオルは思わず飛び退いた。
 カサモト「わはははーっ! びっくりしたか!」
 エオル(……気配がなかった……)

 次にカサモトの漆黒の瞳はよしのに向いた。
 カサモト「芳也殿! ここは一つその魔法とやらを見せてはもらえんか! ぜひ見てみたい!」

 困ったと、エオルとよしのは、よしのをカグヤに仕立てあげた張本人に視線をむけた。しかし当の張本人はぐうすかと寝息をたてていた。

 ――間――

 たんこぶのできた頭をさすりながら、フィードは大きく欠伸をした。
 フィード「じゃあまあここは一つ俺様が」
 エオル「はい?」
 フィード「カグヤサマは長旅でお疲れだ! お手を煩わせる必要などない!」

 そうカサモトに向け宣言すると、船の先端に立った。そうしてぶつぶつと呪文を紡ぎ始めた。
 すると、やがてそよそよと弱い風が流れ始めた。あり得ないとエオルの開いた口が塞がらなかった。

 カサモト「わはははーっ! すごいっすごいぞ! おい! この風を逃すな!」
 バタバタと、甲板が慌ただしくなってきた。

 エオル「フィード、君なんで風魔法なんて使えるの……って、あ! わかった!」
 ヴィンディアの雪山を登るときもそうだった。専門外の光炎魔法を使っていた。ヤクトミとふざけて不正に習得したと。

 フィード「こいつは昔、アレスとちょっとな」

 てっきりまた「ヤクトミと」と言い出すかと思っていたのに、またまた予想外の答えが返ってきた。いや、むしろある程度は予想できたことだ。なぜならこの三人はよくつるんでいたことで学内で有名だった。

 フィード「あいつちゃんと牛乳飲めるようになったかなあ」
 エオル「ぐ……"グランドセブン"アレッサム・エルファー、あの人、真面目そうだけど……」
 フィード「そうか?」


        


 ◆


 ぴたりと書類を捲る手が止まった。窓は大粒の雨が打ち付け、分厚い雲が垂れ込めていた。

 アトランティス大陸 シュリンガヴァッド王国 第一宮廷魔導師執務室。

 長い睫毛がピタリと上向き、その奥の、深い森のような緑の瞳は窓の外に止まった。
 白い肌に切れ長の瞳、アッシュのくるくるとした細い髪、まるで少女とも少年とも取れる中性的な美しい顔は眉間に皺をよせ、頬杖をついた。

 アレス「……五月蝿いな」

 城内に綺麗なハープの音がポロポロと、それはだんだんとこちらに近づいてくるようだった。部屋の前まで来ると、ノックが鳴った。
 アレス「入れ」

 恐る恐る開かれた扉から現れた人物に、アレスは悠然と立ち上がって会釈した。
 アレス「大臣殿、いかがなされた。随分城内は賑やかですね」
 大臣は脂汗を小まめに拭きながら、ドアを更に押し広げた。その向こうから、挨拶がわりに小型のハープをポロポロと、品の良い、それでいてゆったりとした異国の服に身を纏った若い男。

 大臣「お前にも紹介しておこうと思ってな……新しい宮廷楽士だ……王が大変お気に召している」
 若い男は恭しくお辞儀をした。

 「初めまして、アレッサム第一宮廷魔導師様。パーヴァーと申します。以後、お見知りおきを」


        
        
        
KT … カイセツ(K)とツッコミ(T)
      またの名を
      カユイ(K)ところにテ(T)がとどく


      
       
p.4    ■イラつきかたがソックリ
    35話でカグヤがまったく同じイラツキかたを、ウランドにしています。
    それにしても二人ともにイラつかれるウランドって(笑)
       

p.5    ■その結果がコレなんだけど
    フーとの浮気からのー道士協会からの抗議文。

       
p.6    ■あのアパルトマン
    ロロに与えられた部屋のこと。
    
    ■……ありがとう、ございます
    ハニアの両親は、ラプリィが壊した診療所の修繕費とお父さんの治療費を請求されています。
    それがぼったくりにぼったくられて500万。
       

p.7    ■●●
    マワ。
    一応伏字にしてみた。
    結構活躍しちゃってますが、ロロは、悪人です。
    
    ■あなたはそんな言葉を口にするような人生を送ってはだめ
    あくまでシュザアの持論です。作者の持論でもないです。
    まず間違いなく、裏社会に身を置くハイジやロロは別の答えを持ってると思います。
       

p.8    ■あの屈辱的な言葉
    欲求不満ですか〜なくだり。
    シュザアとハイジは過去になにかあったんでしょうかね?
       

p.9    ■牛乳
    34話参照。


       
       
       2012.12.1
        KurimCoroque(栗ムコロッケ)