低く垂れ込めた黒雲。絶え間なく降り続ける雨。
ヴァルハラ帝国 グラブ・ダブ・ドリッブ魔導師協会管轄地区 魔導師協会本部"バベルの塔"最上階――
シェン「いよーっ! じっちゃん!」
地面に打ち付ける雨音だけが響く陰鬱な空気を切り裂く明るい声。窓際でロッキングチェアに揺られていた小さな老人は外の景色に向いていた顔を、ノックもなく開いたドアへと向けた。
会長「おお、リーシェル、こんにちは」
シェンは少し気まずそうに、まるで後ろめたいようなことがあるかのように、苦々しく笑った。
シェン「あのさー、宿舎でペット飼っていい?」
会長「自由じゃろう? それとも儂の許可が必要な"大物"か?」
シェンは訂正するように慌てて顔の前で手を振った。
シェン「ぜんっぜん危なくないし! 寧ろカワイイよっ!」
そうして広げられたドアの、シェンの後ろにいたのは、シェンより少し背の高い、疎らな黒い体毛に、ボテッと出っ張った腹が特徴的な狸の化け物だった。
会長「デカッ」
シェン「ねっ! か、カワイイでしょ!?」
――――
good grace man ――――
結局変身能力等、人に迷惑をかける可能性があることと、珍しさから、魔導師養成学校の飼育小屋で飼われることとなった。シェンは「サンキュー!」といつものように屈託なく笑うと、軽くため息をついた。
シェン「……とまあ、平和な話はここまでなんだけどさ」
会長はロッキングチェアの向かいの、アンティークの凝った飾りの椅子にシェンを促した。シェンが腰かけるとリンリンもシェンの頭の上に座った。
シェン「W・B・アライランスの件でトランプが特別体制敷いてるのは知ってるよね!」
会長はパイプをふかした。
会長「お前はたしか、"グランドセブン"召集の任に就いていたな……」
シェン「そ! でさ、」
会長「グレイの件じゃろう」
声色から、何か"いざこざ"があるのだな、ということが感じられた。
会長「何がなんでも、ヤツは必要か?」
シェン「まあ、相手は魔王級(の大悪魔だからね、グランドセブン全員でかかってダメなら、人類は諦めるしかない、そんなレベルの話だし、後から"もし全員揃っていれば"なんて、思いたくないっしょ?」
老人の手の中にあるパイプの煙がゆらゆらと、この部屋の中で唯一、時間が止まっていないことを示していた。次に時を動かしたのは会長だった。
会長「ヤツは何か条件を出したな?」
シェンは肘掛けに頬杖をついた。
シェン「予想はついてるんじゃないの?」
背もたれに身を預け、会長は再びため息をついた。
会長「マリアについてじゃろう?」
シェン「うん、モモのヤツにマスター・マリアに近づくなとか、話をしたければマスター・マリアに会わせろとか、よくわかんないんだけど、マスターを出さないと話が進まないよ」
少しの沈黙と小さなため息の後、会長は重い口を開いた。
会長「トウジロウ云々はよくわからんが……あまり会わせたくはないのう、マリアには」
シェン「……じゃあ! モモを使おっか!」
会長はフムと顎を擦った。
会長「どういう関連かはわからんが、マリア以外に影響力があるのは、トウジロウだけのようじゃな。悪いが、その方向で頼む」
トウジロウ「ハァ? 誰やソイツ」
シェン『だから、"共食い"グレイ! お前と同じグランドセブンの!』
――パンゲア大陸東海岸中部 ファンディアス国 ファリアスの港街
風魔法の通信技術での、久しぶりの上司からの連絡は、トウジロウにとって全く身に覚えの無い内容だった。
トウジロウ「会うたことないわ」
シェン『よくわかんないけど、肝心のマスター・マリアには会わせらんないみたい? だから、ちょっと手を貸してくれよ』
トウジロウ「無茶言いなはんなや〜こちとら任務中やねんで〜」
そして沈黙。シェンはただ、トウジロウの次の言葉を待った。相変わらずの、他人を馬鹿にしたような物言い。"上"に対しては概ねこのような態度の男だが、ものを考えていないわけではない。一瞬話が途切れた後、答えは直ぐに返ってきた。
トウジロウ「リケはんに交渉するわ、"上司命令で泣く泣く一瞬持ち場離れなあかんわ"て」
シェン『リケにはお前が戻るまで"諜報活動"だけにしといてって伝えておいてね』
トウジロウは軽く鼻で笑った。
トウジロウ「いざとなれば、"アイツ"がおるさかい、大丈夫やろ」
シェン『"アイツ"?』
香る潮風がライトブラウンのクセっ毛を揺らす。石畳の美しいこの港街に、ウランドはまたいつもの如く、このように考えていた。
ウランド(次引っ越すときは、こういう街もいいな)
仕事で遠征した際には必ずといっていいほど、退職後の婚約者との新生活を妄想するのがクセとなっていた。
長閑さと活気が入り交じる平和な街。表通りを歩いての第一印象だった。
一先ず声をかけてやろうとリケとトウジロウが拠点としている宿を目指し、通りの角を曲がったところだった。
「わっ!」
勢いよく走り込んできたその女は、ガタイのいいウランドの胸にぶつかった拍子に尻餅をついた。"壁"にぶつかり、跳ね返された形となった女の前に、ウランドは慌てて膝をついた。
ウランド「大丈夫ですか」
豹柄のパーカーのジッパーを半分あたりまで閉め、際どいホットパンツに胸を強調する下着のようなトップス、メンズライクなゴツいスニーカー、胸下辺りまでの長く美しいストレートヘアから覗く小さな顔は鋭く気品があり、まるで鶴のようだった。豹柄パーカーから細い腕が伸び、ウランドのワイシャツを握り締めた。
「助けてください! 追われているんです!」
女の指し示した遥か後方から、数人の男たちが大声をあげて、こちらに向かい、走ってきていた。ウランドは再び、自分にすがり付く女の顔を見た。目に涙をため、不安そうな、恐怖に駆られた表情。だが、追われて走って来たにしては、息一つ切れていない。ウランドは明らかな違和感を感じた。
ウランド「……貴女は何故追われているのですか? 今の情報ではどちらに否があるのかわかりませんので、双方の言い分を聞かないと」
ブチン、と音が聞こえた気がした。女はスクリと立ち上がるとしゃがんだままのウランドを見下ろし、指差した。
「使えねーオッサン!」
そう吐き捨てると、女は走り去った。ウランドはキョトンと女の背中を見つめ、それから溜め息をついた。
ウランド(最近の若い子は口が悪いなァ……)
女を追ってきていた男たちがウランドと女がぶつかった場所まで追いついた。てっきり、そのまま女を追うためにウランドの目の前を通り過ぎるものと思っていたが、どういうわけか、ウランドの周りを取り囲み始めた。
ウランド「何か?」
男の一人が自らの襟につけられたバッヂを示した。
「警察に決まってんだろ?」
ウランド「はぁ?」
まだ状況が飲み込めないウランドに、警官は呆れたとため息をついた。
「惚けてんじゃねぇよ」
そうして指し示されたのはウランドのワイシャツのポケット。ウランドが中を漁ると出てきたのは小さな麻袋。その中には小さなラムネ菓子。
「多いんだよな最近、"免罪符"の運び屋ってやつが。……魔薬所持の現行犯だ、署まで来てもらおうか」
ウランドは女の走り去った方角へ目を向け、ため息をついた。
ウランド「……やられた」
警察署の取調室。
経緯を話す前に、まずは身分を明かした途端、警官たちの態度は胡麻を擂る方向へと一変した。その後に話した経緯の説明は取って付けたオマケのようだった。
「いや〜しかし、まさか捜査中のハートのエース様だったとは! 本当に、誠に申し訳ない!」
一体何度同じ話を繰り返すつもりだろうか。いくら魔導師とはいえ、魔薬所持の現行犯だ。まるで形骸化している警察の権威に、ウランドは少し残念に思った。
ウランド「……構いません、むしろ丁度いい。"黒い三日月"のリーダー、ロロ・ウーの逮捕を目的に参りました。ただしアジトには多くの部下たちがいるようなので、警察のみなさんの協力をお願いしたいのですが」
にこやかだった警官の顔が一瞬にして凍りついた。
「ロロ・ウーを、ですか……」
渋る様子の警官に、ウランドは何かあるのかと首を傾げた。
「今のこの街の平和は、ロロ・ウーによって成り立っています」
テーブルに頬杖をつき、ウランドは興味深そうに警官を見つめた。
ウランド「ほう?」
警官はウランドと目を合わせようとはせず、視線をテーブルの中央あたりに落とした。
「"黒い三日月"が来るまで、この街は犯罪組織の温床でした」
ウランド「……今は違うと?」
警官は首を振った。
「違いはありません、ただ、多くの魔薬組織が淘汰され、"黒い三日月"の配下につくことで統率され、そして巨大になった組織を恐れて、他の"畑"の犯罪者たちも滅多な行動は取れなくなりました。以前に比べたら平和になった……と言うとおかしな話だとはお思いになられるでしょうが……その、」
あることを進言したいが、なかなか切り出せないでいる警官の言葉をウランドはただ待った。ウランドとしてはのんきに待っていたつもりだったが、組んだ足をブラブラとさせ、キョロキョロと落ち着きの無いウランドの"いつもの様子"に、警官は急かされていると受け取ったようだった。どうにでもなれ、と遂に口を開いた。
「え、S級の賞金首だからと言って、有無を言わさず捕まえるのは、はたして正しいのでしょうか」
キョロキョロと辺りを見回していたウランドは視線を警官に戻した。目があった警官はあわてふためいた。
「そ! その! 勿論正しいのでしょうけど、あの……」
出されたコーヒーを一口含み、ウランドは再び警官を見た。
ウランド「ロロ・ウーのこの街での悪事はこちらでも調査済みです。誘拐して魔薬漬けにし、強制的に顧客を作り、売り上げをあげています。それは町民の一部でしょうが、確実に街を蝕んでいます。貴方の言うその平和は本物だと、胸を張って言えますか? 私には単にあなた方の職務怠慢にしか聞こえません」
警官は俯いた。テーブルの下のその拳は、膝の上で硬く握られていた。
ウランド「これまで対抗する力が無かったのであれば、魔導師が介入する今この時は、絶好の機会だとは思いませんか」
俯いたままの警官はさらに下を向き、最早その表情は窺えなかった。
「お……思いません……」
警官は、俯いたままだった。ウランドは溜め息をついて立ち上がり、免罪符の入った小袋を手にとった。
ウランド「これは捜査に使用させていただきます、時間も限られておりますので、失礼します」
ドアの閉じる音が室内に響いた。警官は見送ることなく制帽をただ見つめていた。
「ハートのエース、あんた、わかっちゃいないよ……」
警察署を出て暫く歩くと、行く手を遮るようにウランドの目の前に先ほどぶつかった女がひょっこりと姿を現した。
「オツトメご苦労さん!」
ウランド「……何か?」
女は手のひらを差し出した。
「何って、さっきあんたの胸ポケに仕込んだやつだよ」
ウランドは無表情に平然と答えた。
ウランド「ああ、あれなら警察の人にお渡ししましたよ」
女はウランドの胸ぐらを掴んだ。
「ハァ!? バッカじゃないの!? ちゃんと隠しとけよ!」
ウランド「それはこちらのセリフです、警官はすぐに胸ポケットにあることを見抜きましたよ。あのままあなたが警察に捕まっても無所持を主張でき、私が捕まっても所持していることに気づかないまま釈放されるとお考えだったようですが、ツメが甘いですね」
女は苦虫を噛んだような渋い表情を浮かべた。ウランドはクスリと笑った。
ウランド「……と、見せかけて、ホラ」
ワイシャツの胸ポケットから取り出されたのは、あの"免罪符"入りの小袋だった。
ウランド「ご所望のものです」
女は顔をしかめ、ウランドを睨み付けた。
「何、嘘だったの?」
女のその質問には答えず、ウランドは続けた。
ウランド「これはどちらで入手されたのですか」
「……そんなこと聞いてどうする? サツにタレ込んで儲けようってか?」
違いますとウランドは笑った。
ウランド「いえいえ、ぜひ私も手に入れたいと思いまして」
あきらかに真面目そうで、どこからどう見ても堅気にしか見えないクロブチメガネのこの冴えない男の、思いもよらぬ回答に、女はキョトンと固まった。ウランドは微笑んだ。
ウランド「教えていただけますか」
「知らない」
ウランド「ではこちらと貴女は警察に突き出しますかね」
ウランドの回答にムッとしたのか女の口調は更に乱暴になった。
「……よその町だよ! こっから結構遠いけど!」
ウランドは手元の小袋に目をやった。
ウランド「では、こちらをいただきます。あ、勿論代金は支払いますよ(経費で)」
それまで怒りに猛っていた女の表情は一瞬にして曇った。
「…………それは売り物じゃない、悪いけどあんたにも警察にも渡す訳にはいかないんだ」
てっきりただの密売人だと思っていた女の想定外の回答に、今度はウランドがキョトンとした。女は明らかに魔薬の常習者には見えない。それとも単なる運び屋で、依頼主に届ける必要があるということか。それならそれで、依頼主から買い上げればいいと考えたが、先ずは話を聞くことにした。
ウランド「事情如何に寄ってはお譲りしますけど」
「なんでもうお前のものになってんだよ!」
――間――
女の先導で場所を移したのはハンターズの裏ギルド。併設のバーで席について、女はヤレヤレと溜め息をついた。
「やっぱココはいいねぇ、昼間っから酒が飲める」
ウランド「……どうでもいいですけど、どうして貴女のような若い女性がこんな所をご存知なんですか……?」
女はウランドの質問には答えず、グラスに赤ワインを並々と注ぎ、それを一気に飲み干した。
ウランド「……一応伺いますけど、成人されていますよね……?」
女は迷惑そうに顔をしかめた。
「ぐだぐだうっせーオッサンだなァ、」
女はパーカーのジッパーをゆっくりと下ろしウインクしてみせた。
「なんなら、確かめてみる?」
一瞬その場に間が空いた。
ウランド「……子どもに興味はありませ、」
「んだとコラァ!」
女はイライラしながらワインを煽った。
(このオッサン、絶っっ対! オトしてやる!)
ウランドはコーヒーを一口含み、軽くため息をつくと、腕と足を組み、背もたれに寄りかかった。
ウランド「で?」
女は舌打ちした。
「アタシから話すのかよ」
ウランドは微笑んだ。
ウランド「ええ、もちろんです」
女はガシガシと頭を掻き、椅子に片足を乗せると、グラスにボトルを傾けた。かきむしってくしゃくしゃになった長い髪は、重力に逆らうことなく直ぐ様ツルンと柳のように垂れた。なかなか話し出そうとしない女に、ウランドは助け船を出してやるつもりで話を切り出した。
ウランド「売ることができないとおっしゃっているのは、すでにどなたかに売約済みだからということですか」
女は迷惑そうに溜め息をついてグラスを揺らした。
「いいや、人を探してる。"免罪符("を使って誘き出せるんじゃないかと思ってね」
ウランド「おや、奇遇ですね、丁度私も探し人に会うのに"免罪符("が利用出来るのではと考えておりまして」
二人は互いに探り合うように目を合わせて沈黙した。先に口を開いたのは女だった。その口から出てきたのは思いがけない名前だった。
「免罪符で探し人ってのは、……ギルティンかい?」
ウランド「ご存知なのですか?」
女は椅子の上で片膝を抱えながら平然と答えた。
「ああ、知ってるよ。でもあたしが探してるのはソイツじゃない、ロロ・ウーって男だ」
ウランドは顎をさすりながらニヤリと笑った。
ウランド「私が捜しているのもロロ・ウーです。彼を、」
『捕まえに』
二人の声が重なった。女は興味深げにウランドの頭の先からゆっくりと見回した。
「ロロ・ウーの賞金目当てかい?」
ウランドはコーヒーを一口含み、カップをソーサーにゆっくりと置いた。そうしてテーブルの上で両手を組んだ。
ウランド「あなたもですか」
女は乾いた笑みを浮かべた。
「まぁ、そんなようなものさ」
ウランド「……目的が一致していて、お互いスタートラインは同じ位置のようですね。ここは一つ、協力しませんか? ついでにギルティン氏の話も興味深い」
女はニヤリと笑い、ワインを煽った。
「ギルティンはヤメときな、アイツはヤバい。協力の話は受けたげる、オッサン情報持ってそうだし」
どうかな、と言いながら微笑み、ウランドは右手を差し出した。
ウランド「ウランドといいます」
女も握手に応じた。
フー「フーだよ、よろしくなオッサン」
ウランドは一瞬キョトンとした。
ウランド「"who("? 珍しいお名前ですね」
フーは腹を抱えて笑った。
フー「あんたのお国ではそんな意味があんの? いいね、"そのうちわかるよ"」
◆◆◆
建物と建物の隙間、壁と壁の谷底のような薄暗い路地裏。お天道様からその姿を隠すように、そこには先ほど"ハートのエース"を誤って拘束した警官と、すぐ隣には派手な格好の若い男。若者はクチャクチャとガムを噛みながらポケットに両手を突っ込み、ダルそうに壁に寄り掛かった。
警官は恐る恐る口を開いた。
「ぜひ、う、ウーさんにお伝えください」
若者はさっさとしろと言わんばかりにわざとらしく欠伸してみせた。
「トランプがウーさんの逮捕に踏み切ったみたいです。すでに街に入って、ウーさんを捜しています」
若者は地面にガムを捨て、警官を睨み付けた。
「だから気をつけろって? オッサン馬鹿じゃねぇの?」
そうして警官の肩を馴れ馴れしく叩いた。
「わざわざ"黒い三日月("が出なくても、警察(でなんとかやってくれていいんだぜ」
◆◆◆
フィード「あーつーいー」
エオル「無いから、涼しいとこなんて」
パンゲア大陸南部。太陽の光の照り返しがまぶしい真っ白な砂浜。寄せては返すエメラルド色の波。一体何度この光景を見ただろうか、この美しいビーチにも、いつまでも続く白砂の大地にも、代わり映えの無い疎らなヤシの木たちにも、燦々と照りつける太陽と湿度のある蒸し暑さも相まって、フィードはいい加減飽き飽きとしていた。
北に進んでいれば陸続きのはずだが、なぜだか暫く進めど海辺に出る。エオルに背負われ、エオルの長いサラサラの金髪を編んで遊んでいたエリスは、ふと思い出したようにポツリと言った。
エリス「そういや聞いたことあるよ、迷いの森ならぬ"迷いの浜辺"。ツーレ半島の伝説だと」
エオルは思わず背中の上の老婆を見上げた。エリスのシワシワの手からエオルの金の髪はスルリとすり抜け、綺麗に編まれた三つ編みはパラパラとほどけた。
エオル「ま、迷いの浜辺!? なんなんですか、それ」
エリス「北に行こうが南に行こうが、西も東も、何処に行っても結局ビーチに出る、いわゆる魔のビーチさ」
フィード「いわゆるって、聞いたことねぇよ」
よしの「困りましたね」
フィードは横目でよしのの手元を見た。ちいさな手のひらの中にはたくさんの貝殻。
フィード「ちゃっかり楽しんでるんじゃねぇか」
見せてみ、と覗いたよしのの手のひらの貝殻たち。その内の一つに目が止まると、フィードははたと固まった。
エオル「ん? なに?」
エオルも貝殻の山を覗き込んだが、慌てて、フィードが見つめたまま固まっている、よしのの"貝殻"をつまみ上げた。そうしてにこりとよしのに愛想笑いをした。
エオル「こ、これだけ戻しとこっか」
よしのはよくわからず首を傾げたが、そのまま頷いた。
エオルがつまみ上げたそれは、人骨だった。それは二人の魔導師に"いよいよこの状況はまずいのではないか"という意識を芽生えさせた。状況の深刻さを、ようやく理解した。
エオル「まず、本当に同じところをグルグル回っているだけなのか、確認しよっか」
エリス「目印がいるね」
フィードは暑苦しい黒のコートの袖を捲った。
フィード「ようし、俺様が魔法で」
エオル「めーだーつーでーしょ!」
よしの「ではこれを」
そう言うと、よしのはガラガラと貝殻を地面に置いた。
エオル「あ、いいの?」
よしのはにっこりと笑った。
よしの「また海に来たときに、拾います」
フィードはニヤリと笑った。
フィード「安心しな、何べんでも連れてってやるよ」
一行がその場を去って少しすると、よしのの置いた貝殻の山に人影がかかった。
褐色の艶やかな肌に、パーマがかった黒く美しいロングヘア。翠の瞳は貝殻の山を捉えるのではなく、その場に残された足跡に向いていた。足跡のサイズをメジャーで測り確信を得たのか、女は満足げに腕を組んだ。
(シャンドラ・スウェフィード、エオル・ラーセン、そしてジパング人、間違いなくW・B・アライランスね)
そうして汗に濡れる黒髪をかきあげた女――トランプ クラブ軍中佐 グウェン・スレッジは一行が去った方角へ視線を向けクスリと笑った。
グウェン(どうするつもりかしら?)
ザクザクと砂を踏みしめ、一行はひたすら"北に向けて"歩いているはずだった。だが暫く歩くとまたもや浜辺に出てしまう。コンパスは北に真っ直ぐ向いていた。エオルは周囲を見渡した。
エオル「さっきの貝殻の山は……見当たらないね?」
フィード「そのコンパス壊れてんじゃねぇの」
エオル「いや、そうは思えな、」
再び覗き込んだコンパスの針は、徐々に向きを変えていた。
フィード「ホレ見ろ」
エオル「いや、違う」
エオルは空を見上げた。方角の参考にしていた太陽の位置も、目に見えて移動しつつある。
ピシャリと自らの頬を叩き、フィードは顔をしかめた。
フィード「幻覚かなんかか?」
エオル「わかんない、なんだろ?」
エオルの背に負ぶわれていたエリスがポツリと言った。
エリス「高いとこから見てみたらどうだい」
高いところなんていくらでもあるんだし、と指し示したのは空高く聳えるヤシの木。フィードは靴を脱ぎ、慣れた様子で軽々と一番上まで登っていった。エリスはその様子を見、笑った。
エリス「サルだね、ありゃあ」
エオル「フィードー! 何か見えるー?」
ヤシの木の天辺から見える景色は、なんの変哲もない、青い空と白い雲、深緑のヤシの木の頭と真っ白の砂の大地。ただその光景が続いている。フィードはすぐさま違和感を感じた。
フィード「……山がねぇ」
見渡す限り同じ景色、これだけ平坦続きの土地であれば、ここからだってエリスの妹のいた山が見えてもいいはず、一行が歩いてきた道のりはそのような距離のはずであった。
フィード「……もっと上から見てぇ」
ヤシの木の頭で返答の無いままの相棒の様子に、エオルは何かに気づき、反射的によしのの手を引いて距離を取った。エオルの背中の揺れで喋りづらそうにエリスは尋ねた。
エリス「一体何だってんだい!?」
エオル「よくわかりませんが、魔法を使う気みたいです」
エリス「おほっ!」
魔導師だということはわかっていたが、実際に使うところはまだ見たことはない、エリスはエオルの背中にいることを忘れ、フィードを振り返った。
エオル「エーリースーさんっ! 大人しくしてて」
エリス「おっ! 使うぞっ!」
エオルとよしのは同時に耳を塞ぎ、身を屈めた。
大地と空気を揺らす轟音。遅れて爆風とともに煽られ、ビシバシと細かな砂が体に叩きつける。暫くして"砂が止む"と、エオルの咄嗟の判断でエオルに覆い被さられ、爆"砂"を免れたエリスは、エオルを押し退けむくりと体を起こし、意気揚々とフィードのいた場所を見た。カラスのような黒ずくめは爆風を利用し、その遥か高くまで飛び上がっていることを直ぐ様発見できた。
飛び上がった数秒間で辺りを見回し、何かに気付いた様子で、フィードは地面に着地した。着地地点には既にエオルもよしのもエリスも駆け寄ってきていた。直ぐ様エオルの拳がフィードの頭をグリグリと抉った。
フィード「いっててて!」
エオル「いきなり爆炎魔法とか、危ないでしょうがっ!」
わかったわかったと、フィードは慌ててエオルと距離を取った。そして地面を指差した。フィードの魔法によって抉られた砂浜の底には幾つもの細かい溝で模様付けられた真っ黒いプレートのようなもの。よしのは首をかしげた。
よしの「何ですの?」
フィードはお手上げだと肩を竦めた。
フィード「ここはでっけぇ"亀の甲羅の上"だ、ついでに周りは水平線、陸なんざ何処にも続いてねぇ」
魔の浜辺の正体、それはたまたま"接岸"していた巨大亀の甲羅の上。運悪く、一行は甲羅の上に足を踏み入れてしまったようだ。
エオルは一瞬息をするのも忘れるくらい固まった。そうして気づいたようにみるみる顔を真っ青にした。
エオル「え? ごめん、もう一度」
フィードはさも面倒臭そうに耳をほじった。
フィード「何べん聞こうが同じだよ、俺様たちゃあ海のど真ん中だ」
潮風香る石畳。"情報通り"豊かな街だ、盗みにはもってこいの。――ファリアスの港町。
ミルクティー色のベリーショートに、同じ色の猫の尻尾、平たい胸を包む星柄の水着にデニムのショートパンツ、それだけ見ればただの活発そうな獣人の若い娘だが、腰から下げた少々大振りの短剣でただの若い娘でないことが見てとれた――"どら猫"ラプリィ。金持ちばかりを狙う一匹狼のやり手新人盗賊、それが今の裏社会のラプリィに対する評価であった。
地下にある裏ギルドに続く薄暗い階段は、人が並んで通るには少し窮屈に感じる幅だった。向かいから階段を上がってくるカップルに、ラプリィは顔をしかめた。インテリ風のクロブチメガネの優男と派手な豹柄のパーカーのギャル、男の左手にはキラリと光る指輪、ラプリィは心の中で舌打ちした。
ラプリィ(不倫の密会に裏ギルドなんて使っちゃって! 関係も薄汚ければデート場所のチョイスも薄汚い!)
ラプリィの冷たい眼差しと男視線がかち合った。男はガタイのいい自分の体がラプリィを通りづらくしたと思ったらしい。ニコリと柔らかな微笑みを向けると立ち止まって壁際に避けた。
ウランド「失礼」
ラプリィは会釈すらすることなくツカツカとカップルの真横を通り過ぎた。
豹柄のパーカーのフードを被り、女はラプリィの背中を見下ろした。
フー「こんなとこ出入りしてるだけあって、礼儀のなってねぇ女だな」
ウランド「……それはご自身のことですか?」
フー「んだとコラ!」
裏ギルドに着くと、併設のバーのカウンターでホットミルクを注文し、バーテンダーが準備をしている間に、大量の手配書が何層にも重ね貼られた掲示板の前に立った。裏ギルドに着くと、いつもの流れだった。そうして、決まって探す三枚の手配書。
ラプリィ(フィードさんとエオルさんのはある……ヘズのは、)
結果は何処の街でも同じだった。ミルクの香りに呼ばれ、ラプリィはカウンターへ向かった。
いつもであればそのまま街の金持ちに関する情報を"買いに動く"のだが、どういうわけか、あのカップルの様子が頭から離れない。特に、あの男に向けられた笑顔。
ラプリィ(尻尾、見えなかったんだろうな、獣人だってわかっていたら、あんな笑顔、向けるはずなんてないもの)
自分にも、いつか獣人とわかっててもあんな笑顔を向けてくれる人が現れるのだろうか? 一瞬ヤクトミの顔が過ったが、直ぐ様ラプリィは首を振った。
ラプリィ(ありえない、あんなガキ、魔導師だけど、結局獣人だし)
どこかで獣人同士では"逃げ"だという気持ちがあった。そう思い、溜め息を付きかけたときだった。わざとらしい大きな音をたてて、ミルクの入ったマグカップの直ぐ横に叩くように置かれたビアジョッキ。持ち主に目を向けると、こちらに体を向け、ニヤニヤと下品な笑いを浮かべながらこちらを見る、見るからにガラの悪い男が視界に入った。さらにその後ろには、同じくガラの悪い数人の男。ラプリィはマグカップに視線を戻し、そのまま無視を決め込むことにした。だが男たちはそれを許さなかった。
「獣人がこんな密室に何の用だ、病原菌でもばら蒔きに来たってか?」
ラプリィはミルクを啜って、退屈そうに頬杖をついた。その態度が余計に男たちをイラつかせたようだ。ラプリィの肩を掴み、無理矢理自分達の方へ向けさせた。
ラプリィ「ちょっと! 触んないでよ! "無関心"がルールでしょ!?」
「病原菌ばら蒔かれてたら、そういうわけにはいかねぇだろう?」
そうして間髪入れずにゴツゴツとした大きな拳が目の端から飛び込んだ。ラプリィはあまりの痛みに呻き声を上げながら頬を被い、踞った。
更に男たちはラプリィの髪を掴み、薄暗いバーの角に引き摺っていった。
「ギャハハ! 病原菌は死ね死ね! 死滅しろ」
「人間様が滅菌してやるよ」
「うわあ! 尻尾だ! 本当に生えてやがる! 気持ち悪い!」
暴行はひたすら続いた。その間、店員も他の客も何事も起こっていないかのように過ごしていた。ルールは一つ、"無関心"。裏ギルドでの、いや、裏社会で生き抜くための、決まり事。ああ、やっぱりこんなところで荒稼ぎしているようなやつらだ、薄汚い、こんなやつらに、助けを求めようなどという気は完全に消え失せた。ヘズの教えから、まだ一度も人に向けたことの無かった短剣に手をかけた。
その時だった。階段から、カツカツと人が降りてくる音。
「なぁんか、うるさぁ〜ぃ」
子どもに話しかけるようなわざとらしい声色。店員も、店の客も一斉に下を向いた。ラプリィに暴行を加えていた男たちは、声の方に振り向くと、息をするのも忘れているのではないかと思うほど石のように固まった。
そんな男たちにゆっくりと歩み寄るのは、サイズを間違っているのではないかと思うくらいのダボダボのワークパンツを腰まで下げ、同じくダボダボのTシャツ、いくつものネックレスを首から下げ、斜めに被ったキャップにジャラジャラのピアス、陶器のような浅黒い肌に光る鼻ピアス、慢性的な寝不足であろう真っ黒なクマに空のような真っ青な瞳。その男はニコリと微笑みながら、首を傾けた。
「なぁーにしてぇんのっ?」
暴行を加えていた男たちはガタガタと震えだした。言い訳をしようにも、声が出ないほどに。
他の客がテーブルから、まるでひまわりのように垂直に起立し、声を張り上げた。
「この街の滅菌だそうです! その女、獣人です!」
青い目の男はラプリィを見下ろした。そうして次に暴行を加えていた男たちに目を向けニコリと笑った。
「この街のために滅菌〜? ありがと〜。でも、獣人だからっていうのはちょっと"ちがう"〜」
男たちのうちの一人が声を絞り出した。その声は恐怖のあまり掠れていた。
「す、すみませんでした……」
「はぁ〜い、じゃあー、もう、行っていいよ」
その言葉に石化を解かれたように、男たちは一目散に逃げ出した。その姿は"尻尾をまいて"という表現がよく似合っていた。
青い目の男はラプリィの前に腰を下ろし、眉を寄せた。
「平気〜? たいへんだったね〜?」
ラプリィは目を細め、冷たく沈んだ瞳を男に向けた。
ラプリィ「助けたつもり? あんたもどうせ、獣人なんかって心の底で思ってるクセに」
男はアハハと子どものような笑顔を向けた。そして、埃にまみれたラプリィの頭をポンポンと撫でた。
「そーんなこーとなぁいよっ」
この、腹から全く出ていない力の無い声、子どもに話しかけるような猫なで声を、ラプリィは始終気に入らなかったが、次の一言でそんな気持ちは瞬時に払拭された。
「だって、フツーにかわいぃじゃん?」
全身が勝手に跳び跳ねるかと思った。体をかけ巡る強い衝撃。ラプリィは言葉が出てこなかった。
男は膝の上に頬杖をついて、続けた。
「怪我痛そうだね〜手当てするよ、うちおいで?」
そう言って、ラプリィの手を引く男の大きな手は優しかった。
ラプリィ「あの、名前……」
男は笑った。
「おれ〜? ロロだよ〜」
ラプリィ「あ、あたしラプリィ」
ロロ「そっか〜、名前もかわいい〜」
前を歩くロロの表情は窺えなかったが、きっと先ほどのように微笑んでいるに違いない、なぜだか不思議とラプリィはそう思えた。
ロロが去った裏ギルドは一瞬にして張りつめていた空気が安堵へと変わった。
常連客の一人が呟いた。
「……"どら猫"も"イカれ帽子屋"の餌食か……」
KT … カイセツ(K)とツッコミ(T)
またの名を
カユイ(K)ところにテ(T)がとどく
p.1 ■タヌキ
24.x, 25,x話に出てきたモンスターです。
■もも?
シェンがトウジロウを呼ぶときのあだ名です。まぎらわしい。
p.3 ■いつのまに胸ポケット
女を追う男たちを指さしてウランドの注意をそっちに向けた一瞬です。
p.7 ■ガム
この世界にもあります。
p.8 ■なぜグウェン?
前の話でウランドからW・B・アライランスの目撃情報について調べるよう命令を受けています。
この目撃情報とは一行が海賊船でたどり着いた村からのもの。
ついでに、魔のビーチに一緒にはいちゃってもグウェンが余裕なのは、軍の魔導師専用道具で"時空扉"が使えるからです。
2011.11.26
KurimCoroque(栗ムコロッケ)